『日本に巣くう「学歴病」の正体』 記事を読んで考えたこと(1)
このブログを読んでいただいている方の多くは、子供の中学受験を予定していると思います。
私も含めて、子供を中学受験させる親は、大なり小なり子供に「学歴」をつけたいと願っているでしょう。
難関大学出身であることが子供の幸せにつながると考えるからです。
この、「学歴」が及ぼしている悪影響について検証する興味深い連載が、週刊ダイヤモンドで始まりました。
ジャーナリスト吉田典史氏による、『日本に巣くう「学歴病」の正体』です。
本連載の目的は、学歴に固執する「学歴病」の問題の本質を検証しつつ、人生の価値基準について考えていくものとしています。
今回から何回かにわけて、本記事を題材に「学歴」について考えてみます。
今日は、主として記事の概要を紹介していきます。
日本に巣くう「学歴病」の正体 第一回の記事内容
第一回は「他人をこきおろす‘’高学歴な負け組‘’たちの底知れぬ心の病み」というタイトルです。
記事冒頭で、日本の学歴の現状について記載があります。
今の日本には、学歴で個人を評価することに対して「時代遅れ」という風潮がある。しかし、表には出にくくなっても、他者の学歴に対する興味や差別意識、自分の学歴に対する優越感、劣等感などは、今も昔も変わらずに人々の中に根付いている。
たとえば日本企業の中には、採用において人事部は学生の学歴を問わない、社員の配属、昇格、あるいは降格や左遷などの人事評価においては仕事における個人の能力や成果のみを考慮する、といった考え方が広まっている。しかし実際には、学歴によって選別しているとしか思えない採用や人事はまだまだ多く、社内には学閥のような不穏なコミュニティも根強く存在する。
学歴から学校不問の実力主義への風潮はあるものの、就職時に学校名による選別を行っている企業群があるのが現実です。
社会に出る段階、もしくはその後で学歴なるものが影響している場面はあります。
次の段落以降、吉田氏が見た学歴に憑りつかれた人々の例が2つ挙げられています。
1.出版関係の忘年会の席で、学歴話で盛り上がる大学院卒30代女性3人
3人は互いに最終学歴を名乗り合い、権威を確かめ合うような挨拶をする。彼女たちの最終学歴は、北海道大学文学部大学院修士、上智大学文学部大学院修士、早稲田大学第一文学部大学院修士だった。
平均年齢は30代後半。現在の仕事の話をすることはほとんどなく、出版社で働く編集者の人事について盛り上がる。彼女たちが一緒に仕事をしている編集者たちだ。忘年会よりも数ヵ月前の9月~11月、いくつかの出版社で人事異動や昇格が発表されたのだという。
女性たちは自らの思いを伝えようと、上半身を前のめりにするほどだった。
「(出版社に勤務する編集者が)人事異動を命じられて、その場で“はい”と返事をするのは甘えじゃない?」「編集者は、自分(の考え)を持っていないよね」「(編集者は)主体性がない!」「(編集者は)自分を持たないと! 2本の足で立って生きないと! プライドを持つべき!」「どこの大学を出ているのかな?」「立教とか明治ならば、編集長なんかなれないよ」「早稲田は、今は局長になるのは無理」「あの人は東大? 局長はともかく、役員は無理じゃない?」「私たちみたいな(大学)院を出ている人なんて、あのクラスにはいないよ」「今は、院ぐらいは出ていないとね」
この会話を聞いていた筆者は疑問に思います。
そもそも、出版社に勤務する編集者が人事異動を受け入れることがなぜ、「自分を持っていない」ことになるのか。「主体性」「プライド」とは、こんな文脈で使う言葉なのだろうか。ましてや「学歴」などということが関係あるのだろうか。そもそも、生活を夫に養ってもらいながら、著者として本を1冊も書いたことがないこの女性たちに、そんなことを語る資格があるのだろうか――。
とかく異動は学歴と絡めて考えてしまいがちです。
確かに編集者としての能力と学歴は文章構成力等ある程度の相関性はあるのかもしれませんが、必ずしも合致するとはいえません。
少なくとも大卒が院卒に比して編集力が劣るとは言えません。
次に、コンサルタントをしている40代男性が紹介されています。
2.早稲田卒の同期をバカにする一橋出身のコンサルタント
2011年、一橋大学(学部は不明)を卒業した40代半ばの男性を取材した。男性は、十数年前から経営コンサルタントをしている。その前は、大手メーカーなどに勤務していた。その頃の話になると、男性は同期の人たちを徹底的にけなした。
「早稲田を卒業した連中のほとんどは、部長になるのが精一杯。それも部長とはいえ、出世コースから外れた部長でしかない。本部長、役員になるコースは東大か、一橋出身」「早稲田の連中と今会うと、多くは白髪が目立ったり、禿げている。会社員は本当にみじめだね」
現在コンサルタントをしている彼は、現状に満足していない様子です。
彼ははるか前に退職し、小さな会社に勤務し、そこも退職した。コンサルティング会社に移ったものの、1年で退職し、数年前からフリーのコンサルタントをしている。残念ながら、大活躍するレベルにはいたっていない。40代半ばという年齢を考えると、前途は厳しいかもしれない。
その意味で、不満を感じているようだった。「一橋を卒業している自分がなぜ、認められないのか」と言いたいように私には見えた。童話に出てくる子どものように、疑いのない表情で真剣に、かつての同期生をけなしていた。胸には抑えることができない焦りや、自分を認めない世の中に対する復讐心があるように思えた。一方で、言いようのない空しさに打ちひしがれているようだった。
今50歳を前に冷静に見渡すと、復讐の牙で噛む相手もいないし、闘う場すら与えられえていないのが現状だ。言いようのない空しさに打ちひしがれているようだった。
吉田氏は、例に挙げたような人々にとって学歴とは「人生に行き詰った自分を奮い立たせる最終兵器」ではないかと述べています。
筆者が挙げる学歴病にかかった人々の共通点は以下6つです。
(1)超高学歴である(全員が名門大学の修士課程修了)
(2)学部卒でいったん卒業し、会社員になるが、数年で退職・就職を繰り返し、30歳前で3~4つの会社に籍を置いた経験を持つ
(3)そのいずれの会社でも、さしたる実績を残していない
(4)会社員を辞めて、社会人として大学院の修士課程に進む
(5)修士号を得て、また社会に戻るが、大きな活躍ができない。めぼしい実績もない
(6)「母校」を愛するが、大学教授などとして迎えられることはない
この(1)~(6)に加え、会社員を徹底して否定することも共通項と言えよう。
学力の高い大学・大学院を卒業しているものの、社会に出て自分の理想と現状がかい離している状態にある人々といえます。
なぜ自分は認めてもらえないんだ!と不満を持っている場合が多いのでしょう。
最後に、日本的経営を研究していた岩田龍子教授の著書「日本的経営の編成原理」を引用し、新卒採用の採用基準について検証しています。
「わが国では、一流大学の卒業生達は、その“就職戦線”において、他の卒業生よりはかなり有利な立場に立っている。このことは、彼らが、“実力”において他に抜きんでているからではない。むしろ、これは、彼らがよりすぐれた“潜在的な能力”をもっていると“想定”されるからであり、入社後の長期にわたる訓練の結果、次第にその“能力”を発揮すると期待されているからである」(151ページより抜粋)
岩田氏の指摘を踏まえると、前述した4人の超高学歴な人たちは、それぞれが経験した20~30年前の大学受験という競争では、“勝利者”だったと言える。そして、就職戦線では“潜在的な能力”を持っていると“想定”された。ところが会社に入り、一定の月日が過ぎると、その想定は誤りだった可能性がある。4人とも、実績を残すことなく、明確な理由もなく、数年で転職を繰り返した。30歳前で、その数は3~4つになった。その転職の流れやキャリアに一貫したものがない。こうなると、通常はキャリアダウンであり、労働市場においての価値は著しく下がって行く。
日本の新卒採用はいまだ一括採用が中心のため、採用の効率性を求めようとすると学歴フィルターにかけざるを得ない部分もあるといえます。
また、学生に求める能力は現在習得している技能ではなく、ポテンシャル重視になりがちです。
今は、インターンシップの導入が進んでいますが、新卒一括採用制度が続くかぎり旧来のポテンシャル採用は残るのではないでしょうか。
記事の感想と次回内容
本記事では、大学まで勝ち組であった人間が社会に出て現状に不満を持つにいたった状況と、癒しを学歴に求める様が描かれていました。
せっかく大学受験に成功したのに、社会に出て挫折し学歴にしか拠り所を見出すしかなくなったらむなしいです。
自分の子供が記事に出てくるような大人になったら、親は後悔すると思います。
愛情とお金と時間をかけて育ててきたのに、育て方が間違ったのではないかと。
「学歴病」にかからないためには、現状に目を背けずしっかり現状を見据え、独自の価値判断の基準を持って解決策を検討することが重要なのではないかと思います。
次回、学歴についてこれまで私が経験してきたことを中心にまとめ、本テーマ(学歴)を深堀りしていきたいと思います。
↓応援いただけると更新の励みになりますm(_ _)m